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ぽかん、としていた。

宮沢は完全にされるがままになっていて、瞳がかわいらしく俺を覗き込んでいた。

あたりが、一瞬、しんと静まっていた。

…元々、さっきから、沈んだ雰囲気ではあったが、今は完全な静寂。

周りには、宮沢のお友達たち。

呆けたように、幻でも見ているように、視線を注いでいた。

宮沢の兄の墓前でキスをするというのも、なかなか挑戦的なことかもしれないな、とも思う。祟られるかもしれないが、そうしたら、なんとか関係を認めてもらうしかない。

いや、というか、それ以前に宮沢にきちんと告白をしなくてはならないな、とも思うが。

しかし、そんな思いも周りの人も、遠い潮騒のように現実感がなかった。

世界にいるのは、今、俺と宮沢だけのような気がしていた。

俺たちは口付けている。

世界の全てが、ひっくり返ったような気がした。

…そして、唇を、離す。

「…うおおおぉぉぉーーー!!」

「てめぇぇーーーっ!!」

「なにしてんじゃ、コラーーーーーー!!!」

そして、訪れる…大乱闘。

俺は思った。

ああ…

この子を落とすのは…

本当に…命がけなのだと。

 

 

 

 

 

みぎてひだりて

 

 

 

 

「あ、み、みなさんっ」

宮沢が慌てたように声を上げるが、他の連中の絶叫に阻まれて、ほとんど通らない。

「宮沢、危ないぞ」

「あっ…」

ぐい、と、彼女を下がらせる。

そしてあたりには…突進してくる屈強な男たち。

なんだ、こりゃ。

非現実的すぎる光景に、俺は笑ってしまった。

「死ねや、コラァァァーーーーーッ!!」

「死ぬか、あほっ」

俺は突っ込んできた男の拳をかわす。

「オラァッ!」

だが、避けた先にも敵はいる。

「…春原バリアー!」

「え、ちょ…ぶあっ!?」

男の拳が、春原に炸裂していた。

「ふぅ、春原、サンキュ!」

俺は親指を立てる。

「いきなり僕を盾にするなよっ」

「あと何発もつ?」

「もうもたねぇよッ」

「やべ、春原バリアー!」

「あ、おぃ…ぐぇっ!」

春原バリアーは、強い味方だった。

…とはいっても、ずっとここにいるのは危ないな。

ほとんどもみくちゃになっているからなんとかなるが、俺の包囲網みたいになったら逃げることはできないし、多分命はないだろうな…。

身を翻す。

男たちの間に逆に入り込んで、するりと集団を抜け出す。

「宮沢っ」

「あ…っ」

視線を交わす。

「じゃあな」

俺は全力で駆けていく。

後ろから、慌てたような宮沢の言葉が聞こえる。

「ぁ…明日、あしたっ、放課後、待ってますっ」

片手をあげて、それに答えた。

あいつ、逃げたぞ!

おい、こっちじゃないのか!?

バカ、金髪のほうじゃねえ、そいつはダミーだ!

早く、追いかけろ!

後ろから、怒号。

…鬼ごっこが始まった。

 

 

 

 

夜になる。

いつものように、春原の部屋へ。

「…今日は、ひどい目にあったよ」

「ああ、ほんとだな」

「あんたのせいだよ!」

「あぁ、そうだっけ?」

春原はボロボロになっていた。逃げ損ねて、あのもみくちゃに完全に巻き込まれたみたいだった。

「岡崎、あれからどうしてたの?」

「ついさっきまで、追いかけっこだよ」

ワイシャツはびしょびしょになっていた。まだ春だけど、さすがにあれだけ走れば汗だくになる。

今は、一度家に帰ってシャワーも浴びてきた。着替えて帽子もかぶって変装したから、今日のところは安心だ。

「ていうか、なんなの?」

「なにがだよ」

「いきなり有紀寧ちゃんにキスしたこと」

「…大盛り上がりだった、だろ」

「おまえ、有紀寧ちゃんのこと、やっぱり好きだったんだね」

呆れたように口をゆがめるが、目許は笑っている。

「おまじないだ」

「別に、隠さなくてもいいよ」

あんなことしたら、口で言うよりわかりやすいよ、と続ける。

「でも、大騒ぎになるってわかってただろ」

「だから、やったんだよ」

「…有紀寧ちゃんのため?」

「いや…。自分のためだよ」

そう。あれは、彼女のためではない。

俺は、したいことをしただけだった。

「はぁ、ほんと、命の綱渡りをしてるよね、おまえ…」

「なぁに、かえっていい運動になる」

「めちゃめちゃふところ深い言い分だね…」

「また、盾になってくれるかなっ?」

「しないっ、できないっ、するかっ」

力強く、断られてしまった。さすがに気前よく答えてくれるわけはないが。

「おまえ、しばらく身を隠しておいたほうがいいよ。あいつら、明日とか殴りこみかけてくるんじゃない?」

「…まさか」

そう答えるが、たしかにそれくらいの剣幕はあった。

…だが、それでも、明日休むというわけにもいかない。

「明日は学校行くよ。停学明けに休むわけにもいかないだろ」

「別に、いいとも思うけどね」

「宮沢とも、約束あるし」

明日の、放課後。場所は問われるまでもなく、資料室だろう。

「ああ、そうなの…」

春原は肩をすくめる。

どうなっても知らない、というような表情だった。

まあたしかに、危険はあるかもしれないが。

だがそれ以上に、宮沢との約束のほうが大事だった。

「ていうか、実際、有紀寧ちゃんと付き合ってるの?」

「いや…」

「それでいきなりキスしたし、嫌われたりしないの?」

「…」

ああ、たしかに、強引すぎて幻滅されるって可能性はなくはない、のか。

いや、でも、最後に言葉を交わしたときの彼女の感じは、刺々しいこともなく、いつもの調子だった。

でも、な…と、俺は考え込んでしまう。

そんな姿を見ながら…春原は、小さく息をついた。

「ま、有紀寧ちゃんなら、そんなことはないだろうけどね」

春原は。

笑っている。

「だってさ…あの子も、きっと……」

 

 

 

 

資料室の、扉の前に立つ。

放課後だった。隣に春原の姿はない。

登校はしてきたが、放課後は資料室には来ないとのこと。

あいつはあいつなりに、気を遣っているのだろうか。

資料室の前に、立っている。

いつもなら、気負いもせずに扉を開けて、宮沢と挨拶を交わす。

席について、出てくるコーヒーを飲んで、後はだらだらと話していると、いつの間には日は暮れている。

…それが、いつのものパターンで、だけど今、俺はなかなか扉を開けることができなかった。

昨日のことが思い出される。

まさかあの男たちが中に待ち構えている…ということもないだろう。

いつものように宮沢がいるのだろう。

だが、だからこそ、どうしても緊張してしまっていた。

どういう顔をして会えばいいのだろうか。よくわからない。

いつも通り…というわけにも、いかない、だろうな。

でも、だったらどうすればいい?

少し考えて、やはり、最初はいつもみたいにしていればいいか、と思う。

宮沢の反応を見ながら、合わせていけばいいか。

こんなところで悶々として、ひとり赤面していても仕方がない。

資料室の扉を開ける。

ドアは、がらがらー、と、のんきな音を立てた。

 

 

 

 

「あ、朋也さん」

いつもの席に座っていた宮沢は、俺の顔を見るとにっこりと笑った。

それはいつもの表情で、俺は安心した。

だが、少しだけ、微妙な感じもする。

俺と宮沢はキスをしたのだ。

今までの、すごく親しい先輩後輩…という関係は抜け出しているとも思う。

だが、今、彼女は変わった様子はないような気もする。

昨日のことは、全然意識すらしていないのだろうか?

「…? どうしましたか?」

「ああ、いや」

じっと彼女を見つめていたらしい。宮沢はこっくりと首をかしげ、俺はどぎまぎしてしまう。

というか、本当に、いつもの感じだな…。

「あ、コーヒーいれますね」

「ああ、さんきゅ」

やかんが、しゃんしゃんと息を吐いている。

宮沢は火のついたコンロをとめると、食器類を準備した。

「そういえば、さ」

「はい」

俺は、ぼぉっとそんな姿を見ながら、問う。

「昨日言っていたけどさ」

がちゃんがちゃ!!

「…」

「…」

宮沢の持つ食器が、大きな音を立てた。

「失礼しました」

「ああ、うん…」

宮沢がにっこりと微笑む。

「で、昨日のことだけど」

がちゃがちゃ!

「…」

「…」

宮沢の手から、今にもコーヒーカップが落ちそうだった。

「俺がやるぞ」

「い、いえっ、大丈夫、ですっ」

立ち上がりかけると、宮沢は手を振ってとめた。

あぁ、おい、慌ててるのに陶器を振り回すなよな…。

あっぷあっぷのようだから、それを指摘して刺激するのはやめておいた。

一瞬宮沢は焦ったみたいだが、すぐに落ち着いてコーヒーを準備してくれる。

それを見て、俺はなんとなく微笑ましくなった。

多分…

宮沢も、俺と同じようなことを思っていたんじゃないか。

お互いに、色々考えながら、いつも通りを演じていた、というか。

「お待たせしました」

やがて、目の前にコーヒーが運ばれてくる。

「ああ、さんきゅ」

俺と宮沢は目を合わせる。

彼女は、揺れる木漏れ日のような淡い笑顔を見せた。

コーヒーの香りが広がる。

今日も、いい天気だ。

俺は一口、コーヒーをすする。

今日も、いい、日だ。

少し前まであんなに嫌いだった学校が、今ではそう悪いものではないとも思えていた。

この場所が、そして、ここにいてくれる宮沢のことが…。

俺は、好きなのだ。

コーヒーの味がじんわりと広がって、俺はそんなことを考え…はっとしてしまう。

まるで、今、宮沢のことが好きだという、自分の気持ちに気付いたようだった。

そうだ。

たしかに、俺は今自分の気持ちに気付いたかもしれない。

人を好きになること。

その気持ちを、今、初めて知ったような気がしていた。

胸の奥に、じわりと、気持ちが広がる。

その気持ちは、俺の心の隅、もはや足を踏み入れることのない、小部屋にしまわれていた。

もう上がらなくなった右手。周囲の落胆。親父との決裂。

周りには冷たい感情がひしめいていて、もはや「誰かを好きになる」という感情があるということさえ、俺は忘れてしまっていた。

片隅に、忘れ去られたように。

それはまるで、この部屋のようだった。

資料室。

この学校の、忘れ去られた片隅。

宮沢は…そんな場所を、守ってくれているのだった

それはきっと、決して、俺のためではない。

だけど、俺自身がそう感じるのだ。それで、何が文句がある?

俺は、宮沢有紀寧が、好きなのだ。

それだけで、世界中の争いが全て消えるような気さえした。

「なあ、宮沢」

ものみな春の光の中にあり、彼女の柔らかい髪は緩く光を弾いていた。

「はい、なんでしょう」

まるで、世界を洗い直したようだった。

「昨日の、ことなんだ」

「…朋也さん」

宮沢は、少し眉をひそめて俺の顔を覗き込む。

「あのっ、実はお願いがあって、お呼びしてしまったんです」

「お願い?」

俺は目を丸くする。

目の前の少女は、気まずげな表情だった。

一体、なんだろうか。

「はい。実は…」

続けようとした宮沢の言葉は、遮られていた。

「おうっ、ゆきねぇ、来たぞっ」

「…」

いつものように…。

窓枠からもはや顔も覚えた男が入ってきて、俺は心中、苦笑いをした。あぁ、いいところで。

だが…

「あれ…?」

俺は、小さく呟く。

男の後ろから、見慣れぬ少年が、中に続いた。

『お友達』のごつい連中ではなかった。

線の細い、賢そうな顔立ちの少年だった。不良っぽくない、襟付きのシャツを着ていた。少年は、思いつめた表情をして、口を真一文字に結んでいる。

男は窓枠を掴むと身軽にさっと中に入る。少年は不器用にそれに続いて、俺たちのほうを向くと目立たない程度に頭を下げた。

「…」

闖入者は、なんだかいつもと違った空気。

「朋也さん」

「…宮沢」

いつの間にか、前に座っていた彼女は傍らに来ていた。

そっと、俺の耳に顔を寄せる。

「わたしの、今日の、お願いです」

小さく、細い、声だった。

「隣に、いてください。隣に…いてほしいんです」

きゅ、と、一瞬だけ宮沢が男たちに見えないように俺の手を握った。

「…」

俺は、その手を、握り返す。

「お待ちしていました」

宮沢が、男に答えた。

するりと、彼女の手は俺の元を離れていた。

「おう、悪い、待たせたな」

「いえいえ」

「…」

俺は宮沢の横顔を見ている…。

俺の右手には、まだ少し、彼女の掌の温かさが残っている。

じわりと、かすかに…まだ、俺の手は、彼女の左手を、感じている。

「少し、待っていてくださいね。お茶を入れますから」

「ゆきねぇ」

ぱたぱたと、準備をしようとした宮沢を、男が制止する。

「茶は、いらねぇ。はじめようや」

「…はい、そうですね」

宮沢は少し笑った。

「それでは、どうぞ、かけてください」

「ああ」

「…」

二人の男は、手前に座る。

それを見届けると、宮沢は俺の隣の席についた。

俺たちは向かい合う。

「で、今日の話だな…」

男は一瞬、俺に視線を向ける。すぐに外されて、その目は宮沢に向いていた。

「はい。わざわざ、ありがとうございます」

「礼には、及ばねぇよ」

男は、ちらりと隣に座る少年を見た。

彼は、青白くなった顔をじっと机に向けている。

「おい。じゃあ、話してやりな」

「…ああ」

少年は、答えるとじっと宮沢を見つめた。

「宮沢さん…」

「…」

「すみません、でしたっ」

彼は、頭を下げた。

 

 

 

…。

 

 

 

少年は、孤独だった。

多くは語られなかったが、大体の事情は、傍から聞いているだけでわかる。ところどころ、つっかえながら、少年は話をつむいでいく。

始まりは、両親の不和だった。

彼の親は、ことあるごとに、衝突していた。

きっかけは、いつも些細なこと。

よく探さなければわからないような、ほとんど無意味な物事が、両親の間ではさも人生を分ける重大な火種のように、いつも喧嘩の種になっていた。

初めは、説得しようとした。止めようと思った。

だが、彼らは、息子の言葉を聞くこともなく…結局、少年は、家に寄り付かないようになった。

そうして、町をふらついていて、彼はいつしか、同じような境遇の少年たちに出会って、一緒に多くの時間を過ごすようになった。

たとえ、不良と指差されても、少年にとって彼らは大切な仲間だった。浅薄な奴らではなかった。

…そして、その中に。

宮沢和人は、いた。

「和人さんは、いつも冗談を言ってるような人でした」

彼は、言う。

「だからみんな、あの人のこと、バカみたいな奴だって言ってた。でも、いざという時は、絶対にちゃかしたりしなかったし、親身になって話を聞いてくれた。自分のことは全然、話さなかったけど…」

「ああ、そうだったな」

少年の隣、男は遠い目をした。

それは…話に聞くと、この世界に百万くらい転がっている、一人の少年の物語だった。

家庭の不和。夜への彷徨。

男のほうが、ついでというように、宮沢和人のエピソードをいくつか話した。

ファミレスで店のストックがなくなるまでワインを飲み続けた話…。

したたかに酔って、自分で吐いたゲロで自分で滑って転んだ話…。

数人で、回転寿司百貫切りを目指して店に乗り込んでいった話…。

そんな話を聞くたびに、宮沢はくすくすと笑った。

「あの日、は」

ひとつ、区切りがついたところで、少年は話を続ける。

「五月なのに、やけに、生暖かい日でした」

それは、いつもの夜だった。

普段より奇妙に暖かく、長袖では暑いくらいだった。

彼らはいつものように、道端で話しこんでいた。

少年がふと顔を上げると、少し先に…両親の姿が見えた。

こちらに向かって、歩いてくる。

初めは、彼らが自分の両親だということさえ気付かなかった。

親は、彼にとってもはや遠い存在だった。

彼らは、徐々に近づいてくる…。

互いにむっつりと黙って、歩いている。

少年の心は冷えた。

いつまで、あんたたちは、そんな関係をしているんだよ。

一瞬だけ。

彼は両親を見ていた。

おい、どうした。

そう尋ねたのは、和人だった。

いや、なんでもないす。

そう答える。

親がそこにいるんですよ、なんて、誰が言える?

別に大した問題ではない。

ただ親がそこにいるだけなのだ。だから、なんなのだ?

そう思って、再び会話に戻ろうとした。

そう思いながら、ちらり、と、両親を見てしまった。

父親と、母親は…

その時、向かい合って、口論を始めようとしていた。

親は少し、遠くにいて、だが会話のボルテージが上がっているのはわかった。

見慣れた光景だった。

いつも、布団にもぐりこんで、だけど背中から聞こえてくる会話だった。

おい、見ろよ。

仲間の一人が、声を上げた。

喧嘩か?

両親の姿は、遠めにも、少し目立った。

そこは往来だった。

彼らは注目を集めていた。

…それを見て。

少年は、弾かれたように駆け出していた。

なにを言おうとしたのか、今となっては思い出せない。あるいは、もしかしたら、親をその場で殴りたかっただけなのかもしれない。

でも、その間に…太陽を三百個くらい集めたような輝きが、阻んだ。

彼の視界には、光が満ちた。

腕が、引かれた。

そして、それから先は…よく、覚えていない。

「…車だったんだよ」

少年の途絶えた言葉の継ぎ穂を、男が続ける。

「飛び出して、車に轢かれそうになったのを、あいつが助けたんだ」

手を、引っ張ってな、と続ける。

だけど、あいつは間に合わなかった。

びっくりするくらい、あいつの体は、遠くまで飛んで行ったよ。

男は続けた。

「…」

俺は、悟った。

右手を、繋ぐ。

宮沢の左手。

冷たい冷たい手を握る。

手を握る。手を繋ぐ。強く、強く。

俺は…宮沢の隣にいる。

確かに、隣にいる。

今になって、やっとわかる。

今、話されているのは…宮沢和人の、最期の、時だ。

「それから…」

少年は続けた。

それから、宮沢和人の葬式があった。

その場で、少年は、初めて…宮沢有紀寧を、見た。遠くから、彼女を見た。

少女は、じっと…和人の仲間を、見つめていた。

時々、宮沢和人が言っていたことを、思い出す。家庭のことなんて、ほとんど話さなかったけれど、このことだけは、別だった。

俺には、妹がいるんだよ。俺に似なくてな、めちゃめちゃ出来がいいんだぜ。

自慢げに、言っていた。少し照れくさそうに、だけど何度も、そんな話をしていた。

俺を庇って死んだ人の、自慢の妹。

彼女の姿に、少年は、杭を打たれたように動けなくなった。

そして、やがて…。

宮沢有紀寧は、意を決したように、仲間の一人に近づいた。

その時の、少女の言葉は耳にこびりついている。

宮沢和人の、妹です…。

それは大声ではなかった。だけど、その言葉は、鋭く冷たく彼に突き刺さった。

…そう。

彼女は、本当に、宮沢和人の妹だったのだ。

もし、次に…自分が彼女に声をかけられたら。

そんな想像は、恐怖だった。

あの、わたし、宮沢和人の、妹です。

そうですか。俺は、宮沢和人に命を助けられたんです。

馬鹿げている。

少年は、踵を返した。駆け出した。

背を焼かれているように、走って、走った。

彼の掌は、熱を持っていた。

強く強く、誰かに握られているような感覚が、消えなかった。

彼の右手を、左手が握った。

熱い、熱い、掌。

それは、宮沢和人の腕だった。

彼の最後の、灯火だった。

「それから…」

彼の両親は、次第に衝突しなくなっていった。

彼らはその日、少年が飛び出すのを偶然視界に入れていた。

一人の青年がそれを追って、腕を引いて、遠く遠く、走ってきた車に撥ね飛ばされるのを見ていた。

少年は、両親と共に葬式に来ていた。

両親は、悲痛な顔をして、だけど寒々しいほどきちんと、焼香を済ませて頭を下げていた。

父親は、宮沢有紀寧の姿を見て駆け出した少年の後を追った。

おい、どうしたんだ。

父親が、息を切らせて後ろに追いつく。

あの葬式は、おまえを助けてくれた人のものなんだぞ。

わかってるよ。

少年は、答えた。

そんなこと、わかってるんだ。

 

 

 

…。

 

 

 

「それから、うちの親は、喧嘩なんてしなくなりました。多分、今じゃ、他の家よりも仲はいいんじゃないかっていうくらいです。ですけど、俺は、いつも思うんです。親がそんなに仲がよくなったのは…和人さんが、死んだからなんじゃないかって」

少年は、しばらく家にこもっていた。

誰とも会いたくなかった。

両親は口うるさく小言を言ったが、それ以外、誰も訪ねてこなかった。

誰も、自分に用はないらしい。

それは、いいことだ。

…そうして、時が過ぎた。

いつの間にか、世界は秋になっているようだった。

地球は相変わらず回転しているようだった。

相変わらず、彼の右手は…強く強く、引っ張られていた。

その先は、暗闇だった。

 

 

…。

 

 

昼も夜もなかった。

起きると、外は明るかった。起きると、暗いこともあった。

時が、過ぎていった。

それは、ある晩のことだった。

少年の右手は、引っ張られた。

いつもの感覚だった。

誰かに、引っ張られる。

その先は、いつも奈落だった。

だけどその時、右手はドアのほうへ、引っ張られていた。

それに抗う気力もない。

彼はそのまま、手を引かれるように、家を出た。

夜の町。

外は、恐ろしいほど寒かった。世界はいつの間にか冬になっていたのだ。

寝巻き一枚。羽織をひとつ。

雪の中に生きたまま埋められたような気分だった。

歩いていく。歩かされていく。

町並みは、変わっていないような気もしたし、まったく別のもののような気もした。

歩いていく。彼は歩いていく。

そうしてたどり着いたのは、かつて、いつも仲間で集まっている場所だった。

そして、そこには…

見慣れた仲間が、集まっていた。

彼らは、少年を見ると、にっこりと笑った。

よお、久しぶりだな。

なんでそんなに、薄着なんだよ、おまえ。

そう、言われて…少年も、にっこりと笑った。

…そうして、彼は再び、町へ出て行くことができるようになった。

だが、仲間から宮沢有紀寧の話を聞き…

彼は、どうしても、宮沢に会うことはできなかった。

時間をずらし、日をずらし…

そして、ずるずると延びていって、今日という日が、来た。

「会わないと、って。謝らないとって、ずっと思ってたんです。でも、どうしても、踏ん切りがつかなくて…すみませんっ」

少年は、頭を下げる。

宮沢は…黙って、少年を見つめている。

「あの…」

しばらく経って、宮沢が口を開いた。

「手を、右手を…出してもらって、いいですか?」

「え…?」

少年は、驚いたように…だが、おずおずと右手を差し出した。

そして、その手をぎゅっと、宮沢は両手で握り締めた。

「大丈夫ですよ」

「…」

少年と、宮沢の瞳が、交じり合った。

「お兄さんは、あなたのこと、恨んでなんていません。絶対に、恨んでなんていません」

「…」

「引っ張ってくれているんですよ。引きずり落とそうとしてるわけじゃないんです。前に、手を引いてくれているんです。だから、大丈夫です」

宮沢は、ゆっくりと言葉を区切りながら話す。

少年はじっと握られた手を見つめていた。

「わかってます。わかってるんです」

ぼろぼろと、瞳から涙があふれていた。

「和人さんは、そんな人じゃないです。わかってるんです。俺は和人さんのことが、大好きでした。和人さんは、こういう恨みを持って、とか、そんな人じゃないです」

「ええ、ええ」

「ですけど…俺は、ダメなんですっ。和人さんが悪いんじゃないっ。でも、俺は、今でも時々、引っ張られる気がするんです。右手が、強くっ」

「大丈夫ですよ。大丈夫です」

宮沢は、根気強く声をかける。

「お兄さんを信じてください。だからきっと、大丈夫ですよ」

涙に汚れた少年の顔を、彼女はじっと見つめている。

「あなたは、今、ここにいますよ。ここに、いてください。ここにいて欲しいって、みんな、思っています」

宮沢が、ぎゅっと、少年の手を握る。

強く強く、その手を握っていた。

 

…。

 

「すみません…。ありがとうございます」

しばらくして、少年は落ち着いたようだった。

気まずげに顔を伏せて、小さく頭を下げる。

「いえいえ。わたしも、今日はお話を聞けてよかったです。ありがとうございます」

「いや、そんな…俺…」

少年は口ごもった。

「すみません、もう行きます。俺の方こそ、すみませんでした」

そう言って、席を立つ。

「校門まで、送っていきますよ」

宮沢も席を立って、扉のほうに歩いていく。

「いや、そんな…」

「わざわざこちらに来ていただきましたから、せめてお見送りはします」

「えぇと…」

少年は助けを求めるように男のほうを見た。

「ああ、おまえはもう帰りな。で、また、たまにここに来い」

ずっと腕を組んで黙っていた男は、そう言う。

「ゆきねぇ、いいよな?」

「はい、もちろんです」

「だとよ。わかったか?」

「…はい」

少年は、最後に薄氷のように薄く、笑顔を見せた。

 

…。

 

資料室に、俺と男が取り残される。

「これで、よかったのか?」

「ああ」

俺の問いに、男は頷いた。

「あいつも、これで前に進めるだろ」

「そうなのか?」

だが、俺の胸のは少しだけしこりが残っている。

「あいつ、そんな納得した感じじゃなかっただろ。また、同じようなことでトラウマみたいになるんじゃないのか」

「岡崎」

男が、俺を見た。

射抜くように鋭く。

「勘違いするなよ。俺たちは、あいつのことを、支えてやることはできる。

できるが、な。だが、実際立ち上がるのは、あいつだぜ。

本当にあいつを支えるのは、あいつの足だぜ。

俺たちは、横から押さえてやるだけだ。だけど、そんなでも、価値がないわけじゃないだろ。

できる十分、力を貸してやれれば、それでいい」

自分自身にも、言い聞かせるような口調だった。

「…そう、かもな」

そうかもしれない。

結局は…全ては、自分の問題なのだ。

自分が、何を感じ、何を信じたのか。

一番大切なのは、そういうことなのだろう。

「…そういえばさ、話は変わるけど」

「なんだよ」

「あいつ、私服のまま外でたけど、大丈夫なのか? うちの学校、校則厳しいから見つかったらタダじゃすまないぞ」

俗っぽい心配だが、この学校の教師がそんな情緒を理解してくれるわけがない。

「…おまえは本当にここの生徒か?」

男は呆れたように俺を見た。

「あん?」

「明日は、何の日だ?」

「はぁ…?」

「…」

俺の反応に、男はため息をつく。

「おい、明日はな…創立者祭だ。だから、今日は作業で私服とかの生徒が、大勢いるんだよ」

「…」

そういえば、この時期はそんなお祭もあったかもしれない。

というか、そういえば、あった。

「創立者祭か…」

俺は呟いてしまう。なるほどな。

せっかくのお祭だ。

できれば宮沢とまわりたいが…おそらく、お友達連中も押しかけてくるのだろう。

無理だろうな、きっと。

「それで、おまえら、明日来るのか?」

一応、聞いてみる。

「当たり前だろ」

「…」

まあ、そうだろう。

「…ふぅん。それじゃ、宮沢は、明日はお仲間と一緒か…」

「いや、おまえも一緒だろうが」

「…?」

俺と男と、訝しげな視線がかち合った。

「バカか、おまえは…」

男が、呆れたように俺を見ている。

「おまえはもう、俺たちの仲間だろうが」

男はそう言って、苦笑気味に口をゆがめた。

わかりづらいが、おそらくそれは、笑顔だった。

「だってな…ゆきねぇは、おまえのこと…」

 

 

 

俺と宮沢は、並んで坂を下っていた。

「朋也さん。今日は、ありがとうございました」

「いや、いただけだし」

「いえ…。いてくれたんです」

「…」

俺は頭をかく。

誰かに必要とされること。

それは、こんなにも…温かいものだったのか。

「わたし、きっと、朋也さんがいてくれなかったら、あの方に何も言ってあげられなかったと思います」

「そんなこと、ないだろ」

最後に、少年にかけてやった宮沢の言葉を思い出す。

兄は死んだ。

それはもう済んでしまったことだった。

その上で、宮沢は、ただただ少年のことを思って、彼に手を握った。

彼を包んでやった温かさは、宮沢のものだ。

彼女の優しさが、ほんの少しだろうと、少年を救ってやったのだ。

俺は思ったことを宮沢に伝える。

それを聞くと、宮沢は、にっこりと笑った。

「それは、違いますよ」

彼女はいとおしそうに左手を差し出す。

「わたし、怖かったんです。お兄さんが死んでしまったときのことを聞くことが。逃げ出したくなるんじゃないかって思っていて…話を聞いている時は、やっぱり、辛かったです」

「…」

「ですけど、朋也さんが、私の手を握ってくれたんですよ」

こちらに差し出された宮沢の小さな手。

俺は、導かれるように、その手を握る。

その手は、柔らかくて、温かかった。

二度と帰ってこない愛しい春の日のように、じんわりとした熱を持っていた。

俺は、この熱を知っている…。

「わたしの手、すごく、冷たかったですよね?」

俺は黙って頷いた。

あの時、宮沢の手は…凍りついたように、冷たかった。

「わたしが、あの人の手を握った時に、温かかったなら…」

宮沢は、目を細めて、幸せそうに笑いながら、俺を見ている。

「あの、温かさは、朋也さんの温かさなんですよ」

俺は…

この手の温かさを、知っているのだ…!

 

 

 

翌日。五月、十一日。創立者祭。

俺は宮沢に一緒に祭りを回ろうと、招待されていた。

で…。

「なんで、おまえも一緒なんだよ」

「別にずっと一緒にいるつもりはないよ。でも、ちょっと一緒に回るくらいいいだろ?」

創立者祭って出るの初めてだしね、と春原は笑う。

たしかに、登校しなくても出席が稼げる日、というイメージだったが。

朝のホームルームが終わり、今はどのクラスも出展の最終チェックという頃だろう。

三年生は完全にお客様だから、教室で談笑しながら、開場を待っていればいいという時だが…俺たちは、旧校舎へ向かっていた。

慌しく、何か抱えて走っていく生徒がいる。

手に持った資料をじっと見つめて歩いている生徒がいる。

旧校舎に入ると、円陣を組んで掛け声をかけてる下級生たちがいる。

なにか目的を持って、それを目指して…

それは、先の見えない俺にとって、苦々しいものだったが…

「岡崎」

春原が声をかける。

彼を見ると、口の端に、微かに、笑みがあるのがわかる。

「なんか、さ」

「ああ…」

「こういう空気、いいよね。祭りの前っていうかさ」

「そうだな」

俺も、春原も、嫌っていたこの感じ。

友情、信頼、目的に未来。

「俺も、嫌いじゃないな」

…そうだ。

俺も、嫌いじゃなくなっていた。この、空気が。

…誰かさんのおかげで。

 

 

 

 

資料室に入る。

「やっほー…って、あれ、有紀寧ちゃんいないね」

中は無人だった。

「クラスのほうがあるんだろ」

大抵のクラスは展示をしている。今は最後の追い込みだ、さすがに今抜けてくるというのは無理があるのだろう。

春原と座って待っていると…

「ちわーす」

「おう、ゆきねぇはまだか」

「あー、ねみぃぜ…」

ぞくぞくとお友達たちがやってきた。

「ひぃぃ…!」

春原は残像か? というくらいに震えている…。

集まってきた男たちは、口々に話し始め、俺たちは隅からそんな情景を見て、宮沢がくるのを待つ。

いつものように。

「よう、岡崎」

だが…。

「こないだは世話になったなぁ」

「君が岡崎くん? あはは、話には聞いてるわよ」

いつもと違い、彼らのほうから声をかけてくる。

宮沢のお友達たちと話しながら、俺は、思う。

昨日の男の最後の言葉。

…仲間、か。

ずっと長い間、俺と共にあったのは春原だけだった。

だが、それは、決して仲間というには微妙なところだ。

仲間とは、きっと、もっと大きな輪のようなものだ。

かつて、俺が、バスケ部のキャプテンだった頃。

肩を組み合う絆はあったのだ。

そして、また…。

俺は、そういう関係を、手に入れることができるのだろうか。

 

 

 

しばらく待っていると、宮沢がやってくる。

「おまたせしましたー」

笑顔の彼女は、あっという間に不良どもに囲まれてしまう。

「相変わらずだね、あの人気…」

春原は汗を流しつつ、苦笑いを浮かべている。

「ああ、まあな…」

「岡崎は、あいつらみたいに入っていかないの?」

「いくかよ」

俺は呆れ混じりにそう言った。

宮沢を慕う不良たちが悪いわけではないが、俺には俺の、宮沢との関わり方があった。

俺は、彼女の元で安らぐよりも…彼女を支えてやりたいと、思っているのだ。

「朋也さん。春原さん。来てくださったんですね、ありがとうございます」

集団を抜け出した宮沢が、とことことやってきて、笑う。

「ああ、予定もなかったし」

「やっほー、ゆきねちゃん。僕もちょっとお邪魔させてもらうよ」

「はい、大歓迎ですっ」

宮沢は笑顔だが、その後ろの男たちの視線は…あぁ、やっぱり視線が痛い。

決して、俺を拒絶するような視線ばかりではない。

応援するような目、生暖かい眼差し。

…少しずつ、こんな視線に慣れていって、うまくあいつらとも折り合いをつけられれば、いい。

俺はそう思った。

宮沢はすぐにまた別の奴らのほうに話しに行ってしまい、俺と春原が残される。

「有紀寧ちゃん、なんか真っ先に僕らのほうに来たねぇ」

「そうだな」

はじめに囲まれた集団を抜けて、第一に俺たちのところに来てくれたこと。

俺はそれだけで、心が温かくなった。

「岡崎、おまえわかってたの?」

「なにが?」

「別に無理にあの集団に入ってかなくても、こっちに来てくれるってさ」

「思ってねぇ…」

そんなわけのわからない自信なんてない。

だけど、宮沢も…少しは、俺のことを気にしてくれているのだろうか。

こちらばかりが彼女を意識しているのでは、なんだか情けない。

そう思いながら彼女の姿を目で追っていると、なんとなく、彼女も目の端でこちらを見ているような気が、した。

 

 

 

『只今より、本年度、光坂高校創立者祭を開催します』

時計の針が開始時刻を刻み、簡潔な放送が一本、流れる。

それを聞いて、学校のあちこちから、掛け声が聞こえてきた。

さて。

俺は外の景色を見てみた。

今日は、いい天気だ。

高校生活、最後の創立者祭。同時に最初の創立者祭だった。

宮沢や、春原や、それを囲むお友達。

「よっしゃ、始まったぜっ」

「ゆきねぇ、行こうぜっ」

先頭の男たちが、宮沢を連れて資料室を出て行った。

全員、それに続けといわんばかりにわっと廊下に雪崩れ込んでいった。

俺はその後を追う。

資料室を出る。廊下に出る。

俺は、集団の一番後ろにいた。

前を進んでいる、後姿。

茶髪は勿論。

金髪がいる。

赤髪がいる。

服装は着崩していて、風体がいいとは言えない奴らだ。

この学校からすれば、明らかに異質に見えるだろう。

こんなおかしな集団が入り込んでいるのを見て、いい顔をしない奴だって、この学校の人間にはいるだろう。

だが…。

俺は、この集団の、後姿を見ていた。

パンフレットを見てわいわいとわめきながら…

いつもと違った雰囲気の校舎の様子を眺めながら…

なんて、楽しそうなんだろうか。

俺は、そう思った。

そして、不意に、集団の先頭を歩く宮沢が、ちらりと後ろを振り返る。

「…」

「…」

視線に射られたように、俺と彼女の眼差しは結ばれていた。

その、目を、見て。

…俺は反射的に、駆け出していた。

前を歩いているいくつもの後姿を追い越していく。

今まで感じたことがないくらい、体が軽かった。

俺は、走る。

胸が、躍った。

驚いたように俺を見ている不良たち。そして、宮沢。

俺と彼女の距離は見る見る縮まって…

「…宮沢っ」

「はい…」

「行こうぜっ」

「…はいっ」

彼女の手をとった。

俺たちは駆け出して、ぽかんとそれを見ていた不良たちは動き出して…

そして、始まる…逃走劇。

「てめぇ、岡崎ーーーーっ!!」

「こないだの続き、やろうってか!」

「上等だぜっ!」

男たちが追ってきた。

たしかに、先日の続きみたいだ。

俺と宮沢がキスをして、馬鹿みたいに大騒ぎして…

だが、ここから始まったのだ…。

「岡崎っ!」

「春原っ!?」

不良たちとの間に入る、ひとつの姿。

「ここは僕に任せな!」

「ああ…悪いっ」

「いくぜ! 春原バリアーっ! …って、うわあああぁぁぁぁぁーーーーーー……」

俺は、宮沢の手を握って、祭りに飾り付けられた廊下を走る。

握り合ったてのひらはじんじんと熱い。

俺たちは笑いあって、わあわあと騒ぎまくって…

創立者祭の廊下を潜り抜けていく。

そうだ。

楽しいことは…

これから、はじまるのだ。

 

 

 

 

俺と宮沢は、一緒に創立者祭を見て回った。

体育館で劇を見て…

出店で買ったものを半分ずつ分け合って食べて…

クラス展示のお化け屋敷やクイズ大会に参加して…

時間は、あっという間に過ぎていった。

そうして、吸い寄せられるように…俺たちは、いつもの場所、資料室に戻ってきてしまっていた。

資料室は、校舎の片隅にある。

だから、創立者祭の喧騒も、ここからだと遠い夢のような感じを受ける。

この部屋は、いつものままだった。

「やっぱり、この学校だとここが一番落ち着くな」

「そうですね。一番長い時間を過ごしてますから」

教室の次に、ですけど、と宮沢は付け足してはにかんで笑う。

俺も笑みを返した。

それだけで心が満たされる。

「あ」

「え?」

「朋也さん、こっちですっ」

「え? なに?」

宮沢に招かれて、資料室の片隅のほうへ…。

本棚にはさまれた死角に寄り添う。

な、なんだ…。

俺の胸は高鳴った。

これって、もしかして…

宮沢は、待ってるのだろうか?

いや、この子にそういう変な駆け引きはないような気もするけど…

いや、どっちにしろ、これはチャンスか…?

「み、宮沢…!」

「しっ」

「…」

ガラッ!

勢いよく、資料室の扉が開けられていた。

…やべ、あいつらまだ探してたのかっ。

「おい、いるか?」

「いないっぽいけどな」

「そろそろこっち来てるような気がしたんだけどなぁ…」

「…」

勘、鋭すぎだろ…!

俺は内心でツッコミを入れた。

「隠れてるかもしれないぜ」

「おい、いいだろ、もう行こうぜ」

「いや、一応調べよう」

雲行きが怪しい。

入り口から死角とはいえ、別に隠れてるというわけでもない。

袋小路だから、逃げ場はない。

「じゃ、俺奥見てくるわ」

コツ、コツ…

足音が、近付いてきた。

やばい。

俺は冷や汗をかく。

そうして…

ひょいっと、男の顔が俺たちのいる奥側を覗き込んだ。

「…」

「…」

目が合う。

…そいつは、昨日の男だった。

「…」

男はニヤ、と、口の端で笑った。

「おい、いるか?」

「いや、いねぇな。そっちはどうだ?」

「いねぇよ。ていうか、こっちは隠れる場所なんかないしな」

「それじゃ、やっぱ別のところだろ」

「ああ、行こうぜ」

男たちが話しながら資料室を出て行く。

ぱたん、と扉のしまる音がして、俺はやっと全身から力が抜けた。

「…寿命が縮まった」

「後でお礼を言わないといけませんね」

「まぁ、な…」

「わたしも、もう少ししたらみなさんと一緒に見て回りますね」

「…ああ、そうだな」

俺一人で宮沢を独占しているわけにもいかない。

このまま遊んでいても楽しいけれど、そればかりが大事なことというわけでもない。

俺も、最後の創立者祭だ。

あとで春原と遊んで回ろうか、とも思う。

「ですけど…」

「ああ」

「もう少しだけ…お話をしましょうか」

宮沢は、そう言うとにっこり笑った。

「ああ、そうだな」

俺も、まだまだ名残惜しい。

奥側から抜け出して、テーブルにつく。

「そういえば、よく人が来るってわかったよな」

「経験ですよっ」

「…」

断言した…。

「朋也さんも、すぐにわかるようになりますよ」

「すっげぇ人生に役立たないスキルだな、それ…」

「いえいえ。意外にわからないものですよ」

「どうだかな…」

 

 

 

「朋也さん」

「ん」

「初めてここに来たときのこと、覚えてますか」

「ああ、そりゃ覚えてるよ。久しぶりに来てみたら、いつの間にか宮沢が住処にしてたから、驚いた」

「はは、住処ですか」

宮沢は楽しそうに笑っていた。

そして、口元をほころばせたまま、胸に手を当てて目を閉じる。

「わたしも、驚きました」

「…」

「それに、少しだけ、心配してしまいました。この学校の方ですと、やっぱり校外の人を敷地に入れたりするの、嫌がるかもしれないと思いますし」

「…」

「それで、わたし、もしかしたらそのことを言いにきたのかな、って思いました」

そう言って、ぷっと吹き出した。

「でも、朋也さん。朋也さんが最初に言った言葉、覚えてますか?」

「覚えてないよ、そんなの」

「わたしは覚えてますよ」

「なんて言ったんだ?」

「…ホットコーヒー」

「…え?」

「そう言ったんですよ。ホットコーヒー」

「…」

その時の俺は何を考えていたのだろうか。自分で、呆れた。

「それで、わたし、すごく安心したんです。きっと…味方になってくれる人だって、思いましたから」

「へぇ…」

「あの時、そう感じたのは、当たってました」

「…」

「朋也さん」

宮沢が、真っ直ぐに俺を見た。

口元は相変わらず柔らかく笑っていて、だけど瞳は真摯に俺を見つめていた。

「好きです」

…そうして、しばらく、時間が止まった。

…。

俺は、彼女の言葉を反芻する。

…なんだって?

「宮沢?」

「わたしは」

俺の言葉にかぶせるように、宮沢が言葉を続ける。

「わたしは、朋也さんのことが、好きです」

「…」

「もし、ご迷惑でなければ」

「俺も、おまえのことが好きだ」

今度は俺が、彼女の言葉を塞ぐように言っていた。

「いつからかはわからないけど、俺も、宮沢のことが好きだ。好きじゃなきゃ…あんなこと、しないしな」

「あ…っ」

宮沢が恥ずかしそうに少し俯く。

一昨日のキスを思い出しているんだろう。

なんだか、こっちも恥ずかしくなってきた。

「あの、その…っ」

珍しく、どもりながら言葉を続ける。

「ありがとうございますっ。わたし、嬉しいです」

「宮沢。俺と付き合って欲しい」

「…はい。わたしでよければ、よろこんで」

かあっと頬を赤くして、幸せそうに微笑んだ。

そんな彼女の表情に、俺の胸を愛おしさが包み込む。

俺は、やっと…

なくしたものを。求めていたものを、探し当てることができたような気が、していた。

「…こっちこそ、ありがと」

ついつい口調が無愛想になってしまう。

「あの、朋也さん…っ」

「なに?」

「じつは、その…っ。おすすめの、おまじないがあるんです」

「どんな?」

「それは、ですね…っ」

宮沢は恥ずかしそうにしている。

「恋人同士のおまじないなんですがっ」

「ああ…」

「お互いに目を閉じて、それぞれの肩に両手を置いて、ですね…っ」

「…」

「そうして…」

…。

そうして。

俺たちは、二度目のキスをした。

 

 

 

 

宮沢を見送った俺は、少し時間を置いてから、資料室を出た。

ふらふらとひとり校内を見て回る。

しばらくして、春原の後姿を見つけた。

「よう、春原、楽しんでるか?」

「岡崎。…って、あれ? 有紀寧ちゃんは?」

振り返った春原は、怪訝そうな表情。だがその手には普通にフランクフルトがあるからあまりシリアスな感じはしなかった。

「もしかして、あのあとあいつらに捕まっちゃった?」

「別に、そうじゃない」

苦笑して否定。俺は春原の隣に並んで歩き出す。春原も足並みをそろえた。

昼過ぎて、一般客もかなり増えてきている。

私服、他校の制服、そして仮装したうちの生徒たち。

色々なものが交じり合って、そしてその中で、色々なものが分かり合えているような気もした。

俺はそんな様子を眺めながら、春原にこちらの事情をかいつまんで説明する。

そして、話を聞き終わると、春原は得心したように頷いて、笑った。

「あぁ、なるほどね…」

うん、うんと頷く。

「あの子らしいね」

「ああ。ま、あいつのそういうところが、好きなんだけどな」

「…ん? 岡崎、今なんて?」

春原がニヤッと笑って、俺の顔を覗き込んだ。

「おまえ今、有紀寧ちゃんのこと好きって認めたよねぇ。あんな、はぐらかしてたのにさっ。ははっ、もしかして、おまえの弱みを握れたかなっ?」

「弱みも何もねぇよ」

「ふぅん、なんでだよ?」

「いや、だってあいつと付き合ってるし」

「ええええぇぇぇぇぇーーーーーっ!!?」

春原は目をむいて大声を上げた。

「あいつのそういうところが、好きなんだけどな」

「ノロケだったーーーーーーーーーーっ!!」

「てか、うるせぇよっ」

「いや、でもさ…」

そりゃ驚くよ、と春原はぶつぶつ言葉を続ける。

一瞬だけ注目が集まったが、視線はすぐに拡散していった。

こういっちゃなんだが、俺と春原の存在よりも刺激的なものは沢山ある。

そう、たとえば…。俺は視線を遠くの廊下に向ける。

髪の色も服装もぐちゃぐちゃな、不良集団を引き連れている少女の存在とか、な…。

宮沢たちが、ずっと向こうにいた。目立つ集団だから、これだけ距離が離れていてもわかる。

「でもさ、よかったよ」

「あん?」

隣、春原に目を向ける。

「おまえに彼女ができて、それが有紀寧ちゃんだったら、僕はうるさいこと言おうとは思わないよ」

「変な奴だったら、文句言うつもりだったのかよ」

「それくらいいいじゃん。友達だろ」

「ああ」

「そこは友達って言ってほし……言ってるーーーーっ!!?」

「ごめん、違ったわ」

「そこで否定したっ?」

「おまえは…さ」

俺は、不良たちの集団をじっと見ていた。

俺と、春原は。

自堕落な生活を一緒に続けていて、お互いに足を引っ張り合うようにこの学校の底にへばりついて、だけど、それだけではなかったはずだ。

「仲間みたいなもんだろう」

俺と春原を取り巻く人間関係は、きっと、今はもっと、外へと広がっているような気がする。

「あいつらも、同じように、さ」

俺は顎でしゃくって、前のほうの集団を示した。

俺があいつらの仲間に加わるというならば。俺は春原にだってその輪に入ってきて欲しかった。

「あいつらね…」

既に痛い目にあっている春原は苦笑いを浮かべた。

「…ま、でも、悪い奴らじゃないとは思うけどさ」

「きっとこれから、嫌というほどあいつらと付き合っていくようになるぞ」

「それでも、おまえほどじゃないだろうけどね…」

俺は、不良たちの集団に昨日の少年が混じっていることに気付く。

彼らとの距離は、ずいぶん縮まっている。

少年は少し居心地悪そうに、ちらちらと宮沢の様子を窺っている。

それも仕方がない。昨日の今日なのだ。

やり直すには、心の整理をつける時間も必要なのだ。

宮沢は少年に視線に気付くと、そっと彼に近付いて、一言二言言葉をかけた。

少年がそれになにか答え、宮沢は少し笑いながらなにかを話した。

きっと、時間はかかる。随分と、時間はかかる。

心の上辺は何を思っても、本心はなかなかその腰をあげてはくれないものだ。

だが、それでも、踏み出した一歩は、たしかに、間違いなく、前進であるはずなのだ。

不良たちの集団が、どやどやとどこかの教室に入っていく。

宮沢がそれに続いて…

何かに気付くように、こちらを見た。

そして、俺の姿をみとめると、ぱたぱたと小さく手を振った。

俺も笑顔で、それに応える。

宮沢の姿はすぐに見えなくなった。

声もかけなかったし、こっちへ目を向けるような何かがあったわけでもない。

だがそれでも、宮沢がこちらを見つめていて、俺たちは目に見えないなにかで間違いなくつながっているのだと思った。

「…ほんとに、付き合ってるんだね」

「あぁ、まあな」

「ふぅん…」

春原は検分するような視線を俺に向けていた。

「…はぁ、僕も、彼女でも作ろうかなぁ」

「あぁ、無理無理」

「めちゃめちゃ爽やかに否定された!?」

春原のツッコミに、俺は笑う。

相変わらずの、俺たちだ。

変わっていく関係がある。だけど変わらないでいてくれるものも、それはそれで間違いなく大切なものだと感じた。

 

 

 

 

創立者祭は盛況のうちに終了し、遠くに、希望者を募ってのフォークダンスの音楽が聞こえてくる。

俺は校門に寄りかかって、空を見上げていた。

空の端に夕暮れが残り、夜空に星が瞬いている。

春の穏やかな風が頬に触れた。

その風は、きっと、ありとあらゆるこの町の全てを、同じように優しく撫でていってくれるのだろう。

「朋也さん、お待たせしました」

「いや、そんなに待ってないよ」

俺は小走りに寄ってきた宮沢に応えて、校門から背を離す。

あたりに人影はない。

ほとんどの生徒が打ち上げに出かけていたり、フォークダンスに参加したり、三年生などは既に下校してしまったりしていて、時間としてはちょうど間の時間だった。

「それじゃ、帰りましょう」

「ああ」

宮沢と一緒の帰り道。

彼氏彼女なら普通かもしれないが、こんなことで、緊張して、胸も高鳴ってしまう。

歩き出すと、ひょいっと自然に宮沢が隣に並ぶ。

「あの、朋也さん」

「なに?」

宮沢が窺うように俺を見上げている。

「その…手を、あの」

「ああ」

言いたいことは、わかった。

俺は左手を伸ばして、彼女の手を握る。

温かく、小さな、大切なてのひら。

ぎゅ、と握ると、小さく握り返される。

…そうだ。

俺は、ひとりではないのだ。

宮沢のてのひらの温かさが、宵闇に燦然と輝く灯台の灯のように、俺にとって間違いなく、かけがえないものだった。

そして、同時に、昨日の少年を思う。

彼にとって、繋いだ手は呪いのように心を縛っていた。

だが、それはきっと違う。

最後の瞬間、宮沢和人は正義感も何もなく、ただきっと彼の手をとったのだろう。

それは善も悪もない。

ただ、温かさがあっただけなのだ。それはきっと、今となっては、それだけの話。

俺は、じんじんと左手に感じる宮沢を思う。

いつの日か、俺は今繋いでいる宮沢の手を、心の重荷に感じるときが来るだろうか?

…だが、そんな思いはすぐに打ち消される。

意味を後付するのは、いつだって自分自身なのだ。

「じゃ、いこうぜ」

「はいっ」

俺と宮沢は歩いていく。

闇に溶かされた影が、わずかに揺れているのが見える。

俺と宮沢は、ゆっくり坂道を下っていく。

彼女の右手と、俺の左手。

そこには、ただ、

温かさが、あった。

俺は。

この手を、もう離さないと決めた。

ふたり、並んで歩いていく。

夕闇に輝く、町の灯に向かって。

 

 

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